ショヒド・ミナール

Dhaka Medical College, Dhaka, 1200
ショヒド・ミナール ショヒド・ミナール is one of the popular Landmark & Historical Place located in Dhaka Medical College ,Dhaka listed under Monument in Dhaka ,

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ショヒド・ミナール(ベンガル語: শহীদ মিনার)は、バングラデシュの首都ダッカにある国定記念碑。1952年に起こったベンガル言語運動の犠牲者を追悼する目的で建設された。1952年2月21日、母国語であるベンガル語の対等な社会的地位を要求したベンガル人の主張者へ、パキスタンの警察隊が発砲し、多くの学生と政治活動家達が殺害された。この虐殺は、ダッカにあるダッカ薬科大学とラムナ・パークの近隣で起こった。同年2月23日 に、一時的な記念碑がダッカ大学と別の教育機関によって建設されたが、そのすぐ後の2月26日に記念碑はパキスタンの警察により取り壊された。言語運動は勢いがつき、長期に渡る争いの後、ベンガル語はウルドゥー語と対等の地位を獲得した。運動で死亡した人々を追悼するために、バングラデシュの彫刻家、ハミドゥル・ラハマンによってショヒド・ミナールがデザイン及び建設された。記念碑は1971年のバングラデシュ独立戦争が起こるまで建っていた。この戦争でパキスタン軍が実行し、結果として5万人の市民の命が奪われたと推定される大量虐殺、サーチライト作戦 (Operation Searchlight) が行われていた中で完全に破壊されてしまった。バングラデシュの独立後、記念碑は再び建設された。現在、ショヒド・ミナールはダッカに置いて文化的な活動の中心地となっている。毎年、この記念碑で言語運動の慰霊祭が行われる。沿革最初のショヒド・ミナール最初のショヒド・ミナールは、2月21日の運動のすぐ後に建設された。この最初の記念碑の主な計画者及びデザイナー、サイード・ヘイダーによれば、この場所へ建設するという決定は、最初にダッカ薬科大学の学生達によって下されたという。建設計画は2月22日の真夜中からスタートし、工事はその翌日に始められた。当時この場所では夜間外出禁止令が出されていたが、生徒達は2月23日の午後にミナールの建設を開始した。彼らは夜を徹して作業を行い、夜明けには工事が完了した。ミナールには手書きで、「Shaheed Smritistombho(犠牲者の碑、の意)」の文字を書いた紙が貼り付けられた。この最初のミナールは、縦10フィート、横6フィートの大きさであった。ミナールは虐殺で殺されたソフィウル・ラハマン (Sofiur Rahman) の父親により、落成式が行われた。しかし、これはその後数日で、警察隊とパキスタン軍により取り壊されてしまった。ショヒド・ミナール(1963年~1971年)バングラデシュの政党アワミ連盟が力を持つようになると、政府による報復を恐れること無く、新たな記念碑を建設することが可能となった。著名な建築家であるハミドゥル・ラハマンが、1957年に建築が開始されるショヒド・ミナールのデザインを作成した。ミナールの基礎となる石は、1956年2月21日に敷かれている。ハミドゥル・ラハマンのモデルは、ダッカ薬科大学寄宿寮の庭にある広大な土地に、巨大な複合施設を建てるというものだった。この巨大なデザインには、記念碑中央の高座にたたずむ母と犠牲となったその息子を象徴した、半円形の柱が含まれていた。また、太陽に反射する目を象徴した黄色と深い青色のステンドグラスは、その柱の動く影を反射するようにデザインされた。ミナールの地下にも、言語運動の歴史を描いた1500平方フィートに及ぶフレスコ画が含まれていた。ベンガル語のアルファベットで装飾された柵は、前面に建設される予定であった。他に、赤と黒に彩られ、2つの相反する力を示している2つの足跡も、デザインのうちの一つだった上に、博物館や図書館を建設することもまた、ラハマンの計画には含まれていた。目のような形状をした泉が建設される予定もあった。

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